黒い、まるで闇を固めたような黒いつややかな毛並み、やわらかでしなやかで華奢な体躯。しらじらと夜の闇を照らす月のような金色の瞳、幼いながらすでに身に付けていた気品。
どこからか現れて、いずこかへ去っていった。
――そんな、猫がいた。
マリアにしか姿を見せない、マリアによく似ている、
――そんな、猫のカタチをしたモノがいた。

―― Geisterseherin 3

ぷしゅ、音を立ててドアが開いて。転がり込むように中に入って、マリアは思わずその場にしゃがみこんだ。
ふつふつと湧き上がる嬉しさで顔にしまりがない。こんな顔は、誰にも見られたくない。
――なー。
「……ああ、いたの」
誰にも見られたくないけれど、相手がねこならいいかなと思って。
どこからともなく現れて、しゃがみこんだマリアのふとももに頭をこすりつけるねこに嬉しいまま笑いかける。
「あのね、クリフがわたしのこと好きだって」
重大な告白のように、声をひそめて報告した。きょとんと首をかしげるねこに、嬉しさから吹き出して、くすくすと笑う。

笑いながら、けれどふと頭のすみに見つけたことに、マリアの笑みがじわじわと小さくなる。
嬉しいのは、浮かれるほど嬉しい気持ちは嘘ではないけれど。それだけではない、もっと複雑な気持ちを見つけて、やがて笑みが完全に消える。
あの日、大切な人を亡くしてから。
自分はひどく不安定だと、マリアは分析する。

――大切な人に嫌われたくない、大切な人に嫌われたまま会えなくのはいやだ。
――そばにいたい、もう取り残されたくない。
基本はそんなところだろう。
だから、大切な人はなるべく作らないようにする。それでも大切な人ができたなら、嫌われないように、離れていかないように努力する。努力しながら同時進行で、その人の悪いところ、嫌いなところを見つけて心の中の「大切な人リスト」から外そうとする。
――最低だ、と思う。

◇◆◇◆◇◆

そんな自分があっさり好きになった人に、まるで亡くしたばかりの親のかわりに好きになった人に、笑ってくれると嬉しいと言われて。たったそれだけで一気に舞い上がって、簡単に喜んで。
何をやっているんだろう。
――にゃあ。
情けないなあと自嘲するマリアに、ベッド脇の低位置にいつものように丸くなったねこが一声鳴いた。浮かれていた分ずぶずぶと沈んだ気持ちが、ふと現実に引き戻された。

――頭がいいねこだ、と思う。
出かける前には確かに部屋にいなかったはずなのに、出入りする穴はやはりマリアに見付からなかったのに。
帰ってきたなら、当然のようにそこにいた。
たとえばコンピュータに向かって作業をしているうちに、気が付いたら当然のようにそこにいる。
マリアが沈んだときをかぎ分けて声をかけてくれる。マリアが暇なとき、作業の合間の気を抜いた時に一声鳴いてかまってくれと主張する。甘えてほしい心細いときはそれを知っているかのようにお茶目にいたずらをしでかして、何かに腹を立てているけれど何にも八つ当たりをしたくないときには姿を現さない。
そうでなくても。言葉が通じているのかいないのか、やけにタイミングよく相槌を打つし、
――それとも猫とは、そういう生き物なのだろうか?

「ありがとう。……あ、そうだチーズ持ってきたのよ。この前のミルクのリベンジ。
……食べる?」
レプリケーターに取りに行ってきたばかりの、抱えていた小さな包みを差し出せば。
好奇心いっぱいふんふんとにおいをかいで、あっさり噛み付いた。猫といったらミルクだろう、と前回持ってきたそれにはふいっとかおを背けたけれど、このチーズは気に入ってくれたらしい。
けっこうな勢いで食べる猫を眺めて、マリアはくすくすと笑う。
先ほど沈んだ気持ちは、沈んだ事実は記憶にあっても。気分の沈みはすっかり薄れている自分に気が付いた。

◇◆◇◆◇◆

――そうして、そんな感じで日々が続くと思っていた。
マリアがいる時にしか姿を現さないねこも、ねことはそういう生きものだろうと思っていた。
運命が加速した、あの日。
能力を発現したあの日、マリアが倒れるまでは。そんな日々がたしかに続いていたのに。

うなされた夢の中――あるいは現実だったかもしれないけれど。声の出ない、身体の動かないマリアを一瞥すると、ゆっくりドアに向かっていったねこ。
呼び止めたくて、せめて振り向いてほしいのに声が出なくて、どこまでも不吉な予感にもがくマリアをねこは最後に振り返って、
ドアは開かなかった。
センサーは反応しなかった。
――ただ。ねこの姿が解けるように薄くなって輪郭をあいまいにして。目のそらせないマリアの見ている中、元からいなかったように、完全に見えなくなる。――昔むかし、どこかで読んだ童話にそんな猫がいたかもしれない。笑いの輪郭を残して姿を消した猫。
――にー。
笑いの輪郭のかわりに、ねこのいつもの、どこか甘えたような鳴き声だけがしばらくその場にわだかまっていた。もがくマリアが身動き取れないうちに、結局それもほどけて消えていく。

――……それきり、二度とマリアは猫に会うことはなかった。

◇◆◇◆◇◆

結局、その猫の正体を今もマリアは知らない。
――思春期の、脆く危うく柔軟な精神が生み出した幻だとか。
――両親の死を目の当たりにして、そのショックで彼女の精神が分裂してあの姿をとったとか。
――まだ発現されていなかった彼女特有の「能力」が生み出したとか。
――逆に、発現するべく遺伝子に植え付けられた「能力」が、発現されないまま押し込められて、その結果どこか歪みを生じさせただとか。
――クリフやミラージュたち、年ごろの養女をにわかに迎えた大人たちが手の込んだしかけをしたとか。
――あのころ、艦が進んでいた宙域に「何か」があったとか。
――無理に現実を直視しようとし続けた彼女が、けれどそれには無理があって、だから彼女の無意識が存在しないモノを見ることでバランスをとろうとしたとか。
――そういう性質のイキモノが、実際あの時あの場にいたとか。
当時からあとになってから、いくつか考え付いたその中に正解があるかもしれないし、ないかもしれない。
けれど実際はどうであれ、マリアにはそれをあばく気はまったくない。

あの時、あの時期「ねこ」がいたことでマリアが嬉しかったのは事実だから。
どうしようもなくずたぼろになって、自覚さえしていなかった彼女の心が、「ねこ」に癒されたことは事実だから。
マリアがあの「ねこ」を好きだった事実は、揺らがないから。

◇◆◇◆◇◆

「あ……っ!」
そうしてマリアがふと「現在」に戻った時になって、カルサアの路上の猫はふと絡み合っていた視線を外すと、どこかに走り去って行った。なぜなのか逃げられたマリアよりも栗色の髪の少女がしょんぼりして、彼女は苦笑する。
「ねこ……」
「ま、仕方ないわよ、そういう気まぐれな生きものなんだから」
心底残念そうに、とてつもなく哀しそうに少女がうめくのに、マリアの苦笑は深くなる。
「――ソフィア、行くわよ早く買いものすませなきゃ。ええと雑貨屋と道具屋と……」
「……ねこ……」

毛の色も、ちょっとした仕草も雰囲気も。
――似ているところなんて、なかったのに。

忘れていた、埋もれていた記憶がなぜ今になってよみがえったのかしらとそんなことを思いながら。一度だけ振り返ってかすかに微笑んで、マリアは少女を促すと足早に歩き出した。

……なーぅ。
遠く風の向こう、記憶の中。
黒い「ねこ」が、あのまろい声で、
――一声鳴いたのが聞こえた、気がした。

―― End ――
2005/08/21UP
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