――それは、シルメリアが姿を消したあとに迎えたはじめての夜のこと。
……っ、
「――……?」
何かが引っかかって、ルーファスはただでさえ浅かった眠りの縁から意識を浮上させた。それが音だったのか気配だったのかそれともまったく別の何かだったのか、ただ、何かがあったことは確かだと、まだ半分とろりと眠気の残った目で周囲を見渡す。
王家の地下道の、ここはただ中。一刻も早くと精霊の森を目指して、けれど二人とも強敵との連戦で、疲れきっていて。先は急ぎたい、けれど無茶はいけない。妥協したのがここだった。
かがり火に照らされる中に、おかしなものは特に目に映らなかった。浄化した不死者が戻ってきたわけでもなければ、その新手がやってきた様子もない。不死者ではない生きている獣が出たわけでもないし、同じく生きている人間もまた。
ゆらゆらとゆれる光源に照らされるのは、自分と、自分の手が握り締めたままの得物と、身につけたままの装備と、あとは食料その他の荷物。少し離れた場所に、ほんの数日前まではにぎやかだったのが今はたったひとりになってしまった――彼の同行者。および、その同行者の得物装備荷物。
おかしなものは特になかった。特に増えてはいなかった。
ただ、その同行者が――アリーシャが。
小さく小さく身体を縮めて、細い細い自分の肩を抱いて、一点を――まるで何もない空中の一点をにらみつけたまま、
動かない。
「……おい……?」
怪訝に上げた声に、まだ眠気が透けて見えたのは勘弁してもらいたいと思う。立て続けに起きたことに神経が高ぶっていたとはいえ、それらの何ひとつ尋常の範囲になく、神経を高ぶらせると同時に体力と精神力をこれでもかと消耗させてくれた。そして、その合間合間に行われた戦闘は――少なくともそのうち二回の戦闘の相手は、生命さえ削るような強敵だったのだ。
だから、勘弁してほしかった。
そして、元からして体力のないアリーシャは、細身の彼よりも確実に華奢でもろくて儚い身体しか持たない、今や単なる人間でしかない彼女は。そうだ、ここで野宿をすると決めた時点でもうすでになかば朦朧と意識を手放していて、毛布を巻きつけて腰を床に落とすよりも前に、かくりと気を失うように眠っていたはずではないのか。
そのはずだった、だからなおさら勘弁してもらいたい。
――なぜ今、彼女が。自分よりも誰よりも休まなければならない彼女が、こんな風に起きている?
ディパン王が、首を落とされて死んだ。ディパンの賢王、同時にアリーシャの父でもある男は、彼らがあの広場に現れたと同時――そこでの戦闘が彼らの勝利に終わったその瞬間に、娘と最期の言葉を交わすこともなく、娘の目前で殺された。
一緒に過ごした時間は短いと聞いている。ディパン王族の一員同士ではなくて、父と娘として過ごした時間はさらに短いと。けれどそれでも彼女が父を慕っている様子は片鱗は旅の間何度も目にしていたし、そんな相手を、しかも助けられたかもしれない相手を、ほんの鼻先で殺されて平気な人間はいないと思う。まして、歳若い女の身。その場で卒倒したっておかしくはないはずで、事実彼は、そうなると踏んであの時崩れ落ちるだろう彼女を受け止められる位置に、さりげなく移動してさえした。
彼の誤算だった、そんなことにはならなかった。
心が折れておかしくない出来事にさらされて、さすがに動揺はしたけれど、アリーシャは折れなかった。哀しくなるほど冴えた美しさはいや増して、けれど誰に支えられることなく――内にいるはずのシルメリアにさえ頼る様子もなく、たったひとりで立っていた。魂に同居した戦乙女のことを誤解され、魔物憑きと国を追われ、おどおどと人の顔色をうかがってばかりいた少女は。それなのに、あの場あのときあの瞬間、
切ないほどに、王女だった。
「――無理するな、休めるときは休んどけよ。朝まではここで休んで、そんで、オーディンにケンカ売りに行くんだろ?」
「……ルーファス……」
暗い中、かがり火に照らされた彫像のようだった彼女が、そのとき瞬いてゆっくりとルーファスを見た。心配に目が離せない彼の前でまたひとつゆっくりと瞬いて、その視線がゆらりと彼女自身の身に落ちる。
ぎゅっ、と。
細い肩を抱く手に、さらに力がこもったのが見える。
「もしもこれ以上眠れなくても、身体横にしとけ。な? たとえ不死者が襲ってきたって、オレの弓で守るから」
言いながら、まるであやすように言いながらもそもそ動いてすぐそばについてやるのに、彼女の手から力は抜けない。なんでもない宙の一点を再び見つめだした目に、ああ、なんだか覇気がない。あのとき、折れそうな心を気力で押さえ込んで立っていた彼女に覚えた、シルメリアではないアリーシャに覚えた、ぞくりとした寒気はどこへ消えたのだろう。思わず我が身を見下ろし落胆しないでいられなかった、あのいいようもない強さは、どこへ。
「アリーシャ、」
「――……誰もいないの」
肩を抱く細い手ごと包もうとして、けれど動きが止まった。
ささやきひとつで彼の動きを止めたアリーシャが、きっとそれに気付くことなく、その小さな身体に小さな手に、さらにきしりと力がこもる。
父王を喪った、けれどそれだけではすまなかった。その直後に三賢者のひとり、アリーシャの幼馴染の、ルーファスには二度ましての若い男がグールパウダーに侵されるさまもまた、ただ見ているしかなかった。せめてと一縷の望みをかけた母妃は、王の後を追ったと棺での対面になってしまった。
冷徹な黒の戦乙女は、そして。何が起きたかは分からないけれど、彼女の内からシルメリアをさえ奪っていって。仲間だったはずの、祖国に忠誠を誓い王女のアリーシャの忠誠を誓っていたあの無骨な大男は、それに前後するように不死者の王だったと判明して。
起きたことが大きくて、あまりに大きくてしかも立て続けで、疲れていないはずがない。いっそ殻にこもって一人泣き続けていてもまるでおかしいところなんてない。すべてを夢と忘れても、誰も彼女を責めることはできないだろう。
すぐそばで見ていた彼が保障する。ぼろぼろに傷ついたアリーシャをなお責めるものがいるのなら、他ならない彼が全力で殴り飛ばす。
けれど彼女は、そうはしなかった。内に向けておかしくないどろどろの怒りを、前に向けることを自力で決めた。
だから、そうだ。だからこれから精霊の森に向かうのだ。ただの人間のアリーシャには何もできなくても、ハーフエルフのルーファスにならできることが、足掻く術がまだ残っているから。今この地ミッドガルドでなら、アリーシャも彼についていくことができるから。
今日の野宿は、そのためのもので。だったらなおさら、可能な限り休まなくてはならない。きっとアリーシャも理屈では分かっていることをしつこくくり返そうとルーファスは考えているわけではなくて、
――けれど彼女は、今、何をつぶやいた?
「……アリーシャ……」
「どうしよう、誰もいない……」
虚ろにただ一点を見つめたまま、誰よりも今もろい彼女は、一体何をくり返している?
表情すべてを失くしたような、そんな無表情で。
一体、何を。
