父を喪った、母を喪った。よりどころだった故郷を、心慰める過去の象徴を、そして、
ある意味では限りなく「もうひとりの自分」だった人格を、うしなった。
ひと一人支えうる大部分を、それも立て続けに。
細くもろく儚い少女から、すべてが奪われた。

―― 若水 2

「……っ、」
がりりと脳に響いた不快な音に、自分が歯を食いしばっていることを知った。届かなかった手は宙に凍りついたままどうやらぴくりとも動かなかったようで、身動きをしない亡国の王女は同じ言葉ばかりを虚ろにくり返す。
……そうか、と。
気付いたわけではない、ただ不意に目をそらし続けることができなくなる。知っていて知らないふりをしていたことに気付いた結果、途惑う選択肢さえルーファスの目の前から消えうせる。

――何が彼女の身に起きたかは、おおよそ予測がついた。
――けれど、だから彼がどうすればいいのかは、判断がつきかねた。

◇◆◇◆◇◆

それを声に出して指摘すれば、いよいよ彼女を追い詰めることになる。他のときならともかく、今の弱りきったアリーシャにそれがいいことだとは思えない。かといってこのままひとり放っておいて、それがいい方向に転がるとも思えなかった。
たとえば自分の身を抱くその手が力を込めすぎた指先が、いつもろい肌を割って自身を傷つけるものか分からない。その他の可能性だってあるかもしれない。絶対にないと思ったけれどそれだけ彼女を信じていたけれど、今は夜で魔の支配する時分で、万に一つくらいは絶望に背を押された彼女が取り返しのつかないことになるかもしれない。

◇◆◇◆◇◆

放っておいても王女第一でこういう場合まず確実に勝手に気を回す大男は、いない。
ときどき目が笑っていない気がするものの確実にその知識だけは確かな魔術師は、いない。
同性ならではの気遣いをみせる世話焼き体質の女は、もちろんいるはずがない。
たとえば笑えない冗談をそうと自覚しながら仏頂面で棒読みする傭兵の男も、また。

今まで、ほんの数日前までこういう場合に何かしらの手段を持っていた仲間たちは、今、誰一人残っていなかった。何も思いつかない誰かの真似さえできない、無力感に膝を折る彼しかこの場にはいなかった。
何もできないからと突き放すことなんて、けれどこの、泣いてさえいないただの女の子を前にしたら論外だった。
だったら、たったひとりでおびえるしかないただの女の子を、そのおびえをどうにかできる人間は、今ここにいる彼しかいない。誰もいないとただそれだけをつぶやき続ける彼女と、そして彼しか、この場にはいないのだ。

◇◆◇◆◇◆

「誰も、」
「……オレがいる」
つぶやいた声に、返した。凍り付いていた手を動かして、抱いていた自分の肩にいつか爪を立てていた小さな手を包み込んだ。
「オレはここにいる。アリーシャ」
「……誰もいない」
「アリーシャ……」

届いていない声に一瞬ひるんで、けれど彼女の名前を呼ぶ。反応しない彼女に覚える苛立ちをどうすればいいのか、分からない。無力な自分を思い知らされて、けれど当り散らすべき相手は、自分自身でさえない。
「オレがいる、ここにいるんだ。誰もいないわけじゃない、オレは今、ここにいる」

「――違うわ」
力が込められる一方の手をほぐそうとしたのに、力加減が分からなかった。無理にどうにかすれば、その手は砕けてしまいそうに見えた。
勇気をふるってみても結局は何もできないのかと、女の子ひとりさえ救うことができないのかと肩を落としかけた彼の耳に、けれどそこで、会話らしい意味のある返答が、上がる。
「ルーファスは、ここにいる。分かっているわ。……でも、」
「ありー、しゃ……?」
驚きでその顔を覗き込んで、思わずのその行動は、けれど驚き以外の表情を彼の顔に刻んだ。
「心の内に、誰もいないの。いくら話かけても呼びかけても、っ、」
ささやくような声は、
「――どうしよう、」
ひび割れる。
「こんなの、知らない。……誰も、いないの」
見開いた目が潤み、揺れて、
「――……しるめり、あ」
その欠片が、こぼれ落ちる。

予測どおりだった。
そして同時に、ルーファスにはやはりどうすればいいのか分からない。

◇◆◇◆◇◆

戦乙女ヴァルキリーの末妹、シルメリアはディパンの王女アリーシャに転生した。本来ならシルメリアの魂とアリーシャのそれは、まったく同じもののはずだった。
戦乙女としての記憶や使命や能力は、アリーシャの無意識の底にがんじがらめに封印される。人間の能力しか持たないシルメリアは、アリーシャと呼ばれアリーシャとして生きて、死ぬ。そうして人間の生を体感することで、戦乙女は神と人間の両方を理解する。やがて長い神としての生に人間を忘れかけたとき、戦乙女は再び人間に転生する。
本来、戦乙女の転生とはそういうものだ。
けれど、オーディンはそれに横槍を入れた。
歪んだ横槍は、おかげで歪んだ結果をもたらした。アリーシャという魂がすでに存在していた肉体に、シルメリアの魂は転生した。一つの肉体に二つの魂を宿して、ディパンの王女はこの世に生まれてしまった。
だから。
生まれたときから、アリーシャはシルメリアの魂と一緒だった。自分ではない誰かの魂と同居する生しか、アリーシャは知らない。他の者にとってはそれがどれほど奇妙でも「不自然」でも、アリーシャ自身がシルメリアのことをたとえ疎ましいと思っていても――それでもアリーシャにとって、シルメリアという「自分ではない魂」が同居している状態が「自然」だったのだ。
そのシルメリアが、消えた。
他の者にとってはその状態が「自然」だろう。けれど、アリーシャにとってみれば。生まれた瞬間、いや、母の胎内にいるときから一緒だった「自分ではない魂」が急になくなったことは、ことアリーシャにはこの上なく「不自然」なことでしかない。話かけても、存在しないものは返事をしない。おぼろげでも覚えていた存在感は、そこに存在しなければ感じるはずがない。
無意識、あるいはアリーシャの魂が。今まで当然だったものを失くして、それまでと同じようにいられるはずなんて、ない。

昼間はそんなこと意識している余裕はなかった。立て続けの事態についていくだけで精一杯で、置いていかれまいと懸命になって、だから「あるべきものがない損失感」は無意識の底に沈んでいた。
神経の高ぶりよりも肉体と精神が先に限界に達して、倒れるまでは。
そうして休んで落ち着いたことで、アリーシャは気付いてしまった。
――あるべきものがない。
それは果たして、どれほどの虚無感をともなう自覚だろう。
いくら神の器と呼ばれ扱われて生きてきても、いくら神になりかわる資格を持っていても。結局ルーファスという肉体にルーファスという魂しか持たない彼には、持ったこともない持てるはずもない彼には、想像することしかできない。
アリーシャとシルメリア以外の誰にも、それを実感することはできない。

できない、けれど。

◇◆◇◆◇◆

「オレが、いる。オレがいるよ。魂の同居はできないけど、ここにいる、から」
「……っ、」
「いなくなったりしない」
神の世界に人間のアリーシャを連れて行くことはできないと知りながら、他に方法がなくて、神になるつもりのルーファスは嘘をついた。いつか、遠くない未来に反古にされる言葉を、そうなると知っていて吐いた。アリーシャもその嘘に気付いたはずで、いつものアリーシャならその嘘に気付かないはずがなくて、
――けれど今の彼女はそれに気付かないと知っていた。
こわばった小さな身体を抱きしめながら、ルーファスはくり返す。

――オレはここにいる。
――アリーシャのそばにいる。
――いなくならない、だから安心しろよ。

「……うん……っ」
嗚咽をこらえる声が震えながらうなずいたのは、どれだけの時間が経ってからだろう。あとからあとからこぼれる雫を指先でやさしくふき取りながら、こんなんガラじゃねーよと内心絶叫しながら、ルーファスは笑みを浮かべてみせる。なるべくいつもどおりの、できるだけ表情のこわばりを押し隠した、かなうならやさしい笑みを浮かべてみせる。
「寝ろ。難しいことは考えなくていいから。な?」
「……うん」

◇◆◇◆◇◆

そうしてくたりと華奢な身体から力が抜けた。その段になってようやく、完璧に完全に、体重どころか身体すべてを預けられたことを知って、どうしたものかとルーファスがうなり声を上げたけれど。
彼女はもうぴくりともしなかった。
かすかに涙の残る目尻、けれど口元は安堵に少しほころんでいるようで。
ルーファスの心臓が、跳ね上がる。
罪悪感と、きっとそれ以外の何かの感情から、一度跳ね上がった心臓はいつまで経っても落ち着きを取り戻さない。寝付いたアリーシャを起こすわけにもいかなくて、心臓は跳ねて落ち着かないのに、ルーファスには身じろぎさえ許されない。
もたれかかってきた困った身体は、けれどただ、奇妙なほどにあたたかい。

――それは、シルメリアが姿を消したあとに迎えたはじめての夜のこと。

―― End ――
2007/08/15UP
ルーファス×アリーシャ
OFP
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若水 1 2
[最終修正 - 2024/06/27-10:31]