町を行く人間の目が痛い。ちくちくちくちく集中する視線が痛い。ここは敵国で、自分は隠密で。つい先刻、ここカルサアの町のすぐそばのカルサア修練場から、漆黒兵を蹴散らして捕虜になった部下たちを助け出したばかりで。
――そんな自分の認識が、痛すぎる。
首元の布と抱えた荷物で隠していた顔を、そっと上向かせる。どうということのない顔をしてまっすぐに前を見て、いつもの普通の速度で歩いている男の涼しい顔が恨めしい。少ないとはいえひとがいないわけではない町中を、よりにもよって横抱きで自分を運んでいる男が恨めしい。暴れたところでまるで自由になることが許されない、その腕力差が心底恨めしい。
上目遣いににらんでいるネルに気づいたのか、青い目がふと下を向いた。一瞬目が合った彼女はあわててまた荷物に顔を埋める。耳まで真っ赤になっている彼女が歳よりもよほど幼く愛らしく見えたか、男の目がやさしく穏やかに細くなった。
「何やってるんだよおまえまったくもう」
青髪の青年がぶつぶつ言っている。ベッドに腰を下ろしたネルが小さく肩をすくめると、あ、ネルさんは欠片も悪くないですよ悪いのは全部考えなしのこの筋肉ダルマですから気にしないでください、などとにこり笑いかけられる。
大して遠くもない宿屋に二人が着くまでの間に、ネルを探して町中駆け回っていたらしい青年の耳にはもう噂が流れ着いたらしい。行き違いになることを懸念したか、建物の入口でぷりぷり怒っていた青年の姿を思い返すと、ネルは恥ずかしさでまともに前を見ることができない。
――明日から、この町を歩けないかもしれない。
「おいフェイト、文句は後で聞くからとりあえずネルの傷癒してやれや」
「言ったな、逃げたら承知しないからな。……ていうか言われなくても診るに決まってるじゃないか」
今現在、三人の中で癒しの術が使えるのは自他共に認めるフェミニストのこの青年だけだ。
すいませんネルさん気づかなくて、いやあたし自身もすっかり忘れていたんだ気にしないでくれ、ええと一応傷口見せてもらえますか、ああ分かったよ頼む、――などというやり取りの末あらわにされた傷に、青年が露骨に渋い顔をした。
「……本当に、すいません。こんな大怪我してたのに、何で僕気づかなかったんだろう……」
「気にしないでくれって言っただろう? 隠密やってりゃこんな怪我日常茶飯事さ。あたしが隠してたんだ、あんたがそんな顔する必要はどこにもない」
青褪め泣きそうな顔で謝罪する青年に、あわてたネルが手を振った。あーこりゃ確かにひでえな、とやはり顔をしかめるクリフに、あんたのせいでもないからね、とこちらは軽くにらみつける。
鍛えられて細い筋肉を纏った、しかし女性らしいまろみと艶を帯びた曲線を描く脚。いつもは装備に隠れて見ることのないいくつか古傷が走る肌の上、右のふくらはぎに新しい傷がある。
鋭い牙が突き立ち、それを力任せに引き剥がしたのが見ただけで分かる傷口。牙が食い込みそれが横に広がった傷口は、流れる血こそ固まっているものの赤く熱を持っていて、その周囲は鬱血して青く腫れている。下手な刀傷や骨折よりも、よほど痛々しい。
やましい気持ちはないのだと分かっていても、男二人に脚をじっと凝視されればさすがのネルも少し照れた。居心地の悪そうな彼女に気づいた青年が、ほらおまえはあっち行ってろよっていうか湿布でも買ってこい、などとクリフを部屋から蹴り出す。
「……ヒーリング」
真面目な顔をして呪文を唱えた青年の、そのてのひらにあたたかい光が生まれる。怪我の存在を思い出した時から、さすがにずきずきと鈍く疼いていたものが少しずつ治まっていって、ネルは知らず息を吐く。
「あんまり無茶しないでください、ネルさん」
「――今回のはあたしのわがまま、」
「そうじゃなくて! こういう怪我ほっとくのは止めてくださいって言ってるんです。「任務だから」怪我するのは仕方がないのかもしれません。でも、だからって負った怪我放っておいたら、いつ取り返しのつかないことになるか分からないんですよ?」
「ベリィ、……あの娘たちの分しか用意しなかったから、」
「合流した後に一言言ってくれれば、僕が癒しました」
「あんたの精神力、」
「ネルさん」
静かに名前を呼ばれて、ネルの身体が跳ねる。宿屋「アイアン・メイデン」の一室、ベッドに腰掛けた彼女の前。床に片膝を着いた青年が、半眼になって彼女を見上げている。
「――あの筋肉馬鹿の、一体どこが良いんですか」
「……――は?」
ネルの脳裏が真っ白になった。
「……やっぱり怪我に気づいたからですか、女のひと抱え上げて平気で歩けるからですか」
僕はまったく気づけませんでしたし。その差ですか?
今までの会話とはまったく脈絡のないことを言われて、思わず凍りついたネルをよそに、青年がぶつぶつとつぶやいている。
「な、に……フェイト?」
一体何のことだ、と続けようとした彼女を青年がまっすぐに射る。その瞳の激しさにネルが息を呑む。
「――ネルさんあいつだけ特別視してるじゃないですか」
「……え……?」
そんなことはない。……そんなこと、ないはずだ。
「特別って……よく、にらんでることかい……?」
それはクリフが馬鹿な言動をするからで、「特別視」という言葉に含まれるような、甘い感情はない。それなのにいきなり何を言い出すんだ。
けれど青年は、違うと首を横に振る。
「ネルさん、僕とあいつじゃ扱い違うじゃないですか」
「……あ、あんたは……あの馬鹿と違って、そうそう変な真似、」
はあ、とため息を吐いた青年が、傷口を確かめるように軽く触れてきた。ネルはただ混乱したまま、そんな青年を見つめる。
「――いつだって、あいつだけ「男」として意識してるじゃないですか」
「そ、」
「今だって、僕がこうして触れても警戒しないのに。あいつがそばにいる、視界に入るだけでネルさん緊張するし。……身構えてる自覚がないって言ったらタチが悪いですよ?」
「……っ」
言うと、確認のため事務的に触れるだけだった手が――やけに艶めいた動きで傷口近くを這った。ぞくり、鳥肌を立てたネルを青年が困った顔で見上げている。
「分かってますか? 今だって、僕がその気になったら、ネルさんずいぶん危険な状況にいるんですよ??」
「……っ、フェイ、ト……?」
「もちろんネルさん強いですから、そう簡単にどうこうなるとは思っていませんし。気まずくなったまま――しらんど、でしたっけ? 王都とやらまで一緒に行くのはごめんですから、僕は別に何もしませんけど」
ぱっと手を離すと、青年が薄く笑う。
「――それに、僕の背後でものすごい目でにらんでるやつがいますし。そういうのに見られながらって趣味は、僕、ありませんから。
だから、安心してくれて良いですけど。
――でも、ね? 僕がそう言うまで、ネルさんまったく警戒してなかったでしょう??」
言われて――鳥肌はもう治まっていて、ただネルはこくりとうなずいた。続けて何か言おうとした青年の背後、不意に大きくなった気配に彼女の身体がぎゅっと縮こまる。
「――で、こいつが近づくだけで、ほら、僕とは全然違う」
「フェイト……おまえ今何やってた、おい」
いつもよりも数段低い、あからさまに危険な響きを伴う声。振り返った青年がやれやれと肩をすくめる。
「――別に。苦しんでる自覚すらないネルさんが可哀想で、ちょっとした世間話してただけだよ。……誰かさんは何考えてるのか、態度が煮え切らないし」
ぼやく青年の声を聞きながら、ネルは内心眉を寄せる。
