それまで中途半端に虚空に貼りついていたクリフの手が落ちる。一度落ちてから、戸惑うように伸びて――自分を包もうとする太い腕を複雑な感情を浮かべた紫が映して、――しかしネルは逃げなかった。

―― 惹不起 [……どうかしてる] 3

いつものように緊張にかすかに身を強張らせて、そっと引き寄せられるままになりながら、つぶやく。
「あんたを――たしかにフェイトの言う通り、あたしがあんたを必要以上に意識しているのは分かるんだ。男として意識しているのは分かる。けど……、」
うっとりと熱に包み込まれてから、しかしネルは厚い胸板に手を置くと少しだけそれを押して隙間を作った。どこか煮え切らない困った顔のクリフに、再び視線を合わせる。
「あんたのことは、嫌いじゃない。……近寄られるのが嫌だとか、そういうのじゃない。
ただ……、ねえ、あんたには分かるかい?
「好き」とかとは違うんだ。今までこんな気持ちになったことなんかないんだ。苦しくて、落ち着かなくて、……胸が痛い。あんたのちょっとした言葉や仕草で嬉しくなるのに、それよりもいつもは不安の方がずっとずっと大きくて、目を離すとどうなるか分からなくて不安でしょうがなくて。痛くて苦しくて、つらくて……、
こんなの「好き」とかじゃない。そんな甘い感情なんかじゃないんだ。
――ねえ、あんたには分かるかい? あたしはあんたを、一体どう思っているんだい??」
「……そういう質問を、普通、当のオレに振るか?」
苦笑する青、身体に回った腕に力が入った。引き剥がせない強さでぐっと抱きしめられて、やはりネルの身体はどこか緊張していて――、

「最初はな、正直なとこ、よく似た別のやつとおまえを重ねてた」
ささやかれた言葉が胸に痛んで、さらに身体が強張る。低く笑っている振動が身体に伝わって、変なかたちに残っていた腕でもがいても、見た目通り力の強い男からは離れられない。
ネルの頭にかっと血が上る。
「――あたしは、そいつじゃない……! そんなんだったら、誰かのかわりなんだったら――今すぐこの手を離しな!!」
「まあ待てよ」
笑いのにじんだ声が低く続ける。
「最初は確かに重ねてたんだが、……やっぱあいつとおまえは全然違うんだよな。
隠密やってるだけあって影に徹する態度とか、その割に非情になりきれない甘いところとか、――強くて脆い、そう言えばおまえもあいつも同じなんだろうが、……ずっと見てたから、全然違うことが今じゃよく分かってる」
「……っ、ぁ……」
「――……確かに別のやつに重ねて見てたんだが。今も、完全にそうじゃないとか言い切る自信まではねえんだが。
オレはおまえを気に入っている、それだけは確かだ。人間として気に入ってるし、仲間としても頼りになるし、……こんなこと言うとおまえは嫌がるかもしれねえが――佳い女だと思ってる」
尾骨に響くような、身体に広がるような、――耳にやさしい太い声。頭よりも先にもっと深い何かが反応するような、そんな……、こころがうずくようなこころがざわめくような、そんな言葉。
強く抱きしめられて、クリフがどんな顔をしてその言葉を口にしているのか分からない。見たいのに、見えない。押しつけられた胸板から心音を拾おうにも、耳元でささやかれた声にネルの心臓の方がばくばくうるさくて、とても聞けたものではない。
「ココロってやつぁ目に見えねえからな、他人にゃ、見えてるようで絶対に見えねえ。だから、おまえがオレにどんな感情抱いてるか、オレには分からねえ。
ただ、オレの本心はそんなとこだ」
……ああ、オレも「レンアイ」みたいな甘くてきれいな感情じゃねえんだよな。悪いな。
そう言って声が笑って、身体に回った腕にさらにじわりと力がこもって、
「見えないから、感じるしかねえ。おまえがオレのことを嫌いじゃないってんなら、そうなんだろう。オレにおまえのこころを訊いたって、答えようがねえよ。
ただ、――見てなきゃ不安だってなら、好きなだけ眺めてりゃ良いさ。見てると不安なら、なるべく見えない場所にいるようにする。……状況が許す限り、好きにすれば良い。オレにそれ止めるつもりはねえし、協力するさ」

◇◆◇◆◇◆

ずるい、と思った。そんなことをこんな声でこんなにやさしく強く抱き締めてささやくなんて、――ずるい。それが年齢差とでもいうのだろうか。逆らえないことをきっと知って、わざとそうしたのだと思った。そんなの、ずるいと思った。
まだ警戒しているのに、それなのに、……ネルの身体から力が抜ける。不安は痛みは身体のざわざわに打ち消されて、こころを締め上げていた鋼鉄の糸は檻になって、ネルのすべてを覆ってしまう。
本当の気持ちが結局分からないのに、そのとまどいごと全部絡め取られて、もうきっと離れられない。
……どうかしてる。こんなの、ただの女みたいじゃないか。

――クリフと、何かあったんですか……?
不意に脳裏に甦る、青い髪の青年の言葉。思い出した瞬間、跳ねていたこころがさらに躍る。一生分の鼓動を今このとき打っているのではと思うくらい、心臓が激しく鳴り続けている。
「何か」……聞き慣れない賛辞の言葉だけではなくて、――ああ、それだけではなくてクリフがくれたもの。ネルに惜しみなく、今も与えてくれているもの。

言葉にできないその気持ちの正体が、しかし瞬間いきなり分かった。甘くはない、痛くて苦しいだけ、つらいだけのこの気持ちが一体なんと呼ばれるものなのか。気持ちの正体は結局具体的な言葉にできないのに、けれどそれが何かがいきなり分かってしまった。
それはきっと「今」分かったわけではなくて。男のこころが自分に向いていると知ったさっき、あの瞬間に分かってしまった。
そんな自分が――哀しいくらいに「女」で、それがただ悔しい。

何かを言いたいのに何も言えないネルは、ただ黙ってクリフの胸元に作っていたこぶしをほどいた。ほどいて、このあたたかい身体に回す。やさしくてひどい男を抱きしめ返す。
きっと……それでこころは伝わる。見えないこころは、そうやって伝わる。そう、思った。

ゆっくりと陽の落ちる埃っぽいカルサアの町。薄闇がゆっくりと這い寄る、そんな時刻。町のはずれにある、街唯一の宿屋の一室で。
――男女の影は、ひとつに固まったまましばらくほどけなかった。

―― End ――
2004/07/28UP
憎しみあう5つのお題_so3クリフ×ネル_
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[最終修正 - 2024/06/14-14:47]