いかにもいやいや差し出された彼の手に。
彼女はなぜかふわりと笑うと、そっと自分の手を重ねる。
廊下を行けば、満面の笑みを浮かべた女官にうやうやしく頭を下げられた。あるいは顔も覚えていない部下――かどうかも分からないけれど、がっちり鎧を着込んだ兵士が無駄に通る声を張り上げる。
「おめでとうございますアルベルさま!」
そのたびに元から良くなかった機嫌をさらにどんどん下降させながら、別にそこを目指していたわけでは断固としてないのに、とある扉の前にたどり着いてしまった。ふくよかな――たしか王城で女官頭を勤める女がでんと立ちふさがっていた通路の向こうがわ、彼だけは当たり前のように通されて、最後の最後に彼の機嫌はトドメをさされる。
あまりにげんなりとしていっそそのまま倒れこむことができたらと、彼にはこの上もなくらしくなく現実逃避をしかけたところに。
目の前の扉が内がわから開かれて。
そこには、白いドレスが赤い髪に、赤い髪が白いドレスに、いっそ不思議なほどに映える鮮やかな印象の女が立っていた。その姿を見てしまった彼の心臓が、これもまたまるで彼らしくなく妙な感じに騒ぎはじめる。
「……なんだい、まともな格好してればあんたも普通の人間に見えるじゃないか」
一瞬確かに息を止めたアルベルに、果たして気付いたのかそれとも気付かなかったのか。珍しく――かどうかはよく分からないものの、とりあえず闘いにしか興味のない彼でさえ気付くくらいにしっかりと化粧をしたネルが、けれどいつもとまったく同じような台詞をいつもとまったく同じような口調で吐く。
正直なところその言葉よりも、言いながら彼女が耳飾りをつけている、その動きで聞こえたしゃらしゃらという涼やかな音で。我に返った瞬間反射的に上がりかけた声は、――けれど声が声になる前に喉の奥で消えた。
「……よくあったなそんなちょうどいい服が」
馬子にも衣装、などとたとえばよくあるそんな憎まれ口を叩こうとした彼を、歴戦の勇者に違いないアルベルを、視線ひとつで押さえつけた銀髪の女性が強い視線をやややわらげてにっこりと見事に笑う。おそらく赤毛の友人の、今日の主役の支度を手伝っていたのだろう。
――いまいち気配に気付かなかった自分の迂闊さに、アルベルは猛烈に悔しくなったけれど、まあ大人気ないそんな怒りには女二人とも気付かなかったようだった。
彼の目にはほとんど完成しているようにも見えるけれど、そうではないのか。あれやこれやを手にまだまだ赤毛の飾り付けを続ける銀髪が、作業をしながら器用に肩をすくめてみせる。
「ロザリア――王妃に借りましたわ。晴れの舞台ですもの、彼女の着たウェディングを貸してほしいなんて無茶を快く承諾してくれて、アーリグリフは本当に良い王妃を得ましたね」
先ほどの彼の質問にどうやら答えたらしい、と彼が悟ったのは半拍後。気付いた瞬間、とりあえずわざとらしく顔をそむけてみせる。
「……てめえらの国から来た女をほめるなそれとも何かのあてつけか?」
「いちいち気にするんじゃないよ器の小さい男だね。
まあともかく、ちょっと手直ししただけでこれ着られて実際助かったよ。まったく、もう少し準備に時間かけても良かったと思うんだけどねえ?」
「うるせえ、どっちが急な話だ阿呆」
恐らく混乱、もしくは緊張しているのだろう。軽口に律儀に反応するアルベルが面白いのか女たちのくすくす笑いは消えない。それが面白くない彼はぐるりと部屋を見渡して、この部屋に二人以外姿が見えないことにふと気付いた。
「手は足りるのか?」
もちろん彼に手を出するつもりなんて髪の毛一筋もない。また、他でもないこの女たちがそれを許すはずは当然かけらもない。作りものの花を赤毛にくっつける銀髪は、彼の想像通りまったく手の動きをゆるめない。
「あとは細かなことだけですから。……まあ、隠密なんてやっている職業病で、見知らぬ誰かに触れられたくはないものなんですよ」
「この前の旅でだいぶ慣れたつもりだったんだけどねえ。気のせいだったみたいだ。……まったく、そんなつもりなかったけどさ、これじゃ普通の生活ってのがつくづく遠いよね」
ほらネル、動かないで。ああ悪いねクレア。――まるで存在を無視された疎外感にひとつ鼻を鳴らして、手持ち無沙汰に彼は壁に身をもたれかけさせて、
「慣れるっていえばあんたもそうだよね。たまに武器を身に付けてない気分はどうだい?」
「……こんなんに慣れてたまるか」
「まあ、軍人ですものね」
叩く無駄口にうかぶさざなみのような笑い声は、やはり止まない。
カルサアはウォルターの屋敷にて、王公認というとんでもないたわ言を彼らが聞かされてから三日ほどが経過していた。たった、三日。話が終わってすぐに徒歩で王都に向けて出発した彼らは寄り道もしないで山道を越えて、現在アーリグリフの首都いる。
数日間の約束で建物ごと借り受けた、街に入口にほど近い宿屋の一室に。
――じゃあね、ネル。そろそろ私も自分の身支度をするわ。
――ああクレア、本当にありがとう。
簡単な会話で銀髪が出て行って、すれ違いざまに意味深な、それと同時に今まで以上に強烈な一瞥をうけて、アルベルの肌がざわりと逆立った。――姿見の前でくるりとひとつ回って、仕上がり具合を確認している赤毛はどうやらそれに気付かなかったようだけれど。
ぱたん、ともあれ音を立てて閉じる扉にふと息を吐いて、そんな自分にアルベルは息を止めていた事実を思い知ってなんだか面白くない。
「……しかしまさかこんなことになるとはね」
多分ひとりごとのつもりだろうつぶやきが聞こえて、それもまたとことん面白くない。
「嫌なら蹴りゃ良かっただろうが」
こんな日にもまた吹雪くのだろうか、少し前から黒い雪雲がどんよりと街の上空に居座って、おかげで昼間だというのに薄暗い室内。灯されたあかり程度ではいかにも心細く、けれど足りない光源に浮かび上がる白いドレスは、朴念仁のアルベルにも何とか感じ取ることのできるなにかしらの魅力がある。
あるいはそれをもっと強烈にした何かの力は、いつの間にか彼を見据えていた強い強い瞳に。
「いやだ、とは言っていないだろう? それにあの場であたしが断れば自動的にクレアに決定だ、それは……かわいそうじゃないか」
「どっちがだ」
「あれ、あんた、あたしに哀れまれたいのかい?」
中身のない、じゃれあいのようなかけあいのような会話。そんなものを交わしながら距離をつめてきた女に、今なら多分、手をのばしたなら当たり前のように触れることができるだろう。
身長差で見下ろしながら見上げられながら、けれどアルベルの手は動かない。
女は、純白の花嫁姿のネルは、そしてふと微笑む。
「――そうだね。たとえどんな茶番でも、あんたならどうにかあたしに釣り合うさ」
聞こえた声に、その意味を理解する前に。またひとつ、アルベルの息がつまる。
シランドで仕立てたとかいう、純白の絹をふんだんに使い、さらには水晶やら白銀やらを山ほど縫い付けた――おかげで少し身動きをすればしゃらしゃらと涼やかな音を立てる、普段のネルなら確実に選ばない種類のドレス。女性らしいしなやかな身体のラインを強調しつつ、しかし純白という色のおかげかそれともネル本来の気性のせいか、ドレス姿の彼女には妖艶というよりもむしろ清廉な印象が強い。決して長くはない鮮やかな赤の髪は複雑に編み上げて、これもまた白い造花やらリボンやらで飾り立てている。ドレスに縫い付けられたものと同じ印象の、けれどどこかまろいデザインの水晶と白銀が耳と首元を飾り、それらが今もきらきらと光を反射する。
その白は、あるいはアルベルの抱くシーハーツという国そのものに対するイメージのようで。
「言ってろ、阿呆」
「言うさ。……そういえばあんたも、よくそんな服引っ張ってきたね?」
「式典用の軍服だ、王に無理やり押し付けられた」
「あはは、なるほどね。……うん、でも似合ってるよ」
「どんな嫌味だ」
「ほめたつもりだよ。それが嫌味に聞こえるなんて、あんたの心って本当に貧しいね」
触れれば誰もが高級品と分かる、けれどぱっと見た目にはいまいちそうとは見えにくい、どこまでも純粋に黒で統一された服。彼が漆黒の長となった当時すでにこの国は軍事国家の色が濃く、また中身重視の王が貴族の見栄の張り合いの見本のような式典祭典を好まなかったのもあって、アルベルがこの服に袖を通すのは――ひょっとしたならはじめてだったかもしれない。通常の式典用の軍服を元に細身の彼のために特別にあつらえられた服は、貧弱さではなく引き締まった印象を周囲に与え、また彼特有のどこか張りつめた印象が軍服という重いイメージと妙にマッチしている。その服の上には防寒具をかねた厚手のマント。これもまた、夜の闇を切り取ったように黒が深い。
ネルの白とは真逆のこの黒は、そうか、ならばあるいはアーリグリフのイメージなのかもしれない。
「――ああ、そうだ。元々軍服なんだから帯刀しても文句ねえだろうが。あのクソジジイ」
「目上の人をそう言うもんじゃないよ。
仕方ないだろう、今日の目的考えれば。……こっそり持とうにも、残念ながらその服ならバレるしねえ。マントにも以外と隠せそうにないし」
「……チッ」
抱いた感想がけれどこれもまたなんだか面白くなくて、それをごまかすようにすねてみせれば、ネルが笑う。その笑みは、アルベルの面白くない心を不思議なことにほんの少しであれ軽いものにする。
理由は、分からない。けれど、――
「アルベルさま、ネル……さま。そろそろ玄関ホールの方に」
泡のように浮かびかけた思考が、けれどノックの後の扉越しのくぐもった声に霧散した。
何を考えていたのかを忘れて、ただ、つきつめても面白くないことだけはなぜか分かって、アルベルは、ああ、とドアの向こうに投げやりに声をかける。
「行くか。……とんだ茶番に」
「仕方ないねえ、付き合ってやるさ」
そういうものだからと口うるさく何度も言われていなければ、アルベルは絶対にそんなことしなかった。後見人代わりのウォルターと彼との間で昔から何度もやり取りされたそれらを、漆黒団長以降のアルベルしか知らないネルは当然聞いたことがないはずなのに。
顔を見たならいかにもいやいや差し出された分厚い手袋越しの彼の手に。
それでもなぜかふわりと笑うと、彼女はそっと自分の白い手袋に包まれた手を重ねた。
