多分驚きに一瞬見開かれた目が、すぐに細くなって。
紅を引かれたくちびるが、その両端が、そしてくっと持ち上がった。
まっすぐ行けば王城にたどり着く、すでに歩き慣れた大通りを行く。どんな吹雪の日でもぽつりぽつり程度には見るはずの人影が、今日は、今は、何もない。人がいないわけではないと、知るつもりもないのに周囲を探る彼の感覚はそう告げる。人がいないわけではない、ただ、家の中に店の中にじっと身をひそめて彼らが行き過ぎるのを待っているだけだ。
あと少し後に訪れる、騒いでいい時に思い切り騒ぐための、今は一時の、一時だけの静寂。
このときが静かであればあるほど、この後の騒ぎが大きければ大きいほど、道を行く――つまり今日の彼らは、人々に愛されているということになる。祝福されていることになる。
……あれか、名目上でもなんでも「英雄」だからか……?
個としての自分が誰かに好かれる存在だとはまるで思っていないので、アルベルはそんな風に思ってみる。それならなんとか納得できるかもしれない。あるいは自分ではなくて、この女が、元は敵国のこの国の人間にもそれだけ愛されているのだろうか。
それは、ありえるかもしれない。
思って、ふと見下ろしたなら。足元にまとわり着くドレスの裾をやたらと気にしているため、いつもよりも格段に足取りの遅い――下手をすれば半分以下の速度で雪をふむネルが、なぜだかタイミングよくふと顔を上げると、苦笑とも取れる微笑を浮かべた。
――悪いね。
決まりを守りたがる生真面目な彼女は、声にならない声でくちびるの動きだけでそうつぶやく。そう見えただけで実際は違うかもしれないそのくちびるの動きは、けれどなにやらもぞもぞと落ち着かせない感覚を彼にもたらした。
ふい、と顔をそらす。しゃらりと涼やかに鳴る音が耳に届いて、何を思ったのだろう、とりあえずその音だけでネルが再び自分の足元に注意を戻したのが分かる。
それでいいと思った。
思った自分が変だと思って、きっとこの茶番のせいだと思った。
今日なぜか何度も何度も彼を襲う、不可解なこの感覚はすべてこの茶番のせいだとただ思った。
思って悪いこと全部をそこになすりつけて怒ろうと思ったはずなのに。けれど、このゆっくり流れるなんでもない時間が、もどかしいだけの時間が、不思議と不快でない。今日何度も彼を襲ったいいようもない感覚も、思い返したなら嫌悪とは別のものだったような気がする。
まるきりわけが分からないけれど。
このままの時間が続いても、まったく彼らしくなく、隣にこうしてネルが歩いてくれるならそれもそんなに悪くないかもしれねえな、なんて。
思って。
けれどそれは、教会に向けて大通りを一本入って次の角を曲がった瞬間、ぶち壊された。
それはたしかに待ち望んでいたはずだった、そのためのこの茶番のはずだった。――けれど、けれどなぜか無性に。
苛立たしいと、なぜか思った。
「――このアーリグリフにシーハーツの血を入れるな!」
「漆黒団長をつとめる人間が、シーハーツの女狐の色香に惑わされたか!!」
膨れ上がった殺気、アルベルの前後で彼らの護衛をしているはずの兵たちが、四名とも、タイミングをはかっていたのだろうか剣を抜いて斬りかかってきた。遅い。――季節が一巡りしてない程度に前のあの激しすぎる闘いに慣れた目には、まるで遅い上に連携のなっていない攻撃。しかもフルアーマーがなだれ込むには、その道は狭すぎる。
――阿呆どもが。
吐き捨てようと思ったけれど、多分それくらいは――その半分くらいは想像していたのだろう。鎧と仲間でつっかえながら、引きつったような、けれどバカにしたような声を交互に上げる。
「着飾った姫君に大立ち回りは無理だろうな! ちょうどいい重石ってわけだ!!」
「下手に動けば大事なドレスが汚れるぜ!」
「いくら団長でも得物も何もなけりゃあ避けるしかできないだろう!!」
「あげくお荷物でしかない女を抱えてるんだもんなあ!」
……つくづく阿呆のクソ虫どもが。
ため息さえもったいないような気がする、それを聞いただけでひどく疲れた。
「……とか言ってるが」
「面白いくらいに引っかかってくれたよねえ」
苛立たしい変な感情はまだくすぶってはいるけれど、どうでもいい投げやりな気持ちがそれを上回っている。上回っていながら、けれど今度はそのつもりで周囲を探って、殺気の数を数えてみる。
「――おい、刀」
「分かってるよ」
アルベルは今、確かに帯刀していない。たっぷりしたそのマントに隠しているわけでもなければ、それ以外のどこかに武器を隠し持っているわけでもない。――斬りかかってきた阿呆どもが勘違いするように、わざとそうした。
けれどあわてる必要も騒ぐ必要もなかった。当たり前のようにお荷物扱いされたネルに声をかけたなら、当たり前のように返事がある。とまどうことなく、当たり前のようにその手が動く。
しゃらん、と涼やかな音が走って。
白い手袋を――絹でできたそれを、邪魔だったのかいつの間にか外していた白い手が、先ほどから歩みの邪魔をしていたドレスの裾をたくし上げて。
なぜだかまぶしい脚があらわになり、さらにあらわになったのは。
「――まったく、ちょうどいいもんがよくあったもんだ」
「ちょうどいいちょうどいいって連発するんじゃないよ。別にこんな目的で作ったドレスじゃないし」
「……なっ、」
ぎょっとした声が上がったのは、向かい来るフルアーマー四人とは別のところからだった。そのころにはすでに二人、続けざまの残りの二人も地に沈めて、じゃああたしはこっちをと駆け出そうとしたネルの肩にアルベルのマントがばさりと投げつけられる。
「その格好が動きづらいのは事実だろうが。いいからてめえはあの銀髪がくるのそこでボーっと待ってろ」
「あんたあたしをバカにしてないかい? 剣隠してたから歩きづらかったんだ、あたしだって貴族なんだからドレスは慣れて……聞きな!」
もちろんアルベルは、聞いてはいなかった。
「近ごろ、婚儀を邪魔される事件が続発しておってな」
あの日、カルサアの屋敷で。凍りついたアルベルを尻目にウォルターがまるで声の調子を変えないまま続けた。ひょっとしたら彼と同じく凍り付いていたかもしれないし、まったく顔色を変えなかったかもしれないが、ともあれどちらかも分からない女の声が、なるほど、とうなずく。
「シーハーツでも似たような事件がありました。シーハーツの民とアーリグリフの民の婚儀が邪魔された、と」
「当人同士が好き合っておればどうとでもなると踏んでおったのじゃがな。家同士が納得しとらんことも多いらしいし、中にはたった一度の横槍で話が流れたというものも多い」
――じゃから、と好々爺のふりをした古狸は笑った。
少なくともアルベルには果てしなく嫌な笑みだった。凍り付いていたのがようやく解凍されて、それで見えたのがこんな笑みとは何ごとだ。
「ちょうどアーリグリフにはいい年齢の小僧がおる。幸い、シーハーツには妙齢の未婚女性が、ほれ、わしの目の前に二人もおる。
やつらは耳が良いらしくてな、ちょっと騒ぎ立てれば簡単に踊るじゃろう」
「つまりは、私たちのどちらかに囮になれと?」
「早急に何とかせよと王のお仰せで、……どうかこの老体に協力してはくれんかのう」
古狸の笑みに、多分その場の全員が気付いていた。
無駄に頭の回る古狸が、他の計画を思い付かなかった保障はない。結果的に、けれどこの茶番は収穫があったと、とりあえずこちら方面にあった殺気をすべて沈めてからアルベルは思った。
累々と雪の中に倒れている人影。すべてたった今、彼がそうした者たちだった。兵士姿がある、女官姿がある。あるいは単なる平民姿も。そして、――一人だけ、貴族の姿も。
騒ぎにぱらぱらと外に出てくる一般人はみな一様にぎょっとしていて、けれどアルベルを心配する目こそ向けられても、こいつ本当に狂ったのか的な視線は一つもない。それは不思議でもあったし、あるいは。
――まあ、こいつらみんな刃物持ってるしな。
そして、うめいているものはいても白い雪に鮮血をぶちまけているものはいない。無駄に傷付ける必要も勢いあまって殺す必要も、なかった。彼にとっては、阿呆な妄想にこりかたまった、おそらくはヴォックスあたりの残党でしかない。殺す価値もない。
だからだろう。
「――さすがだね。他に潜伏してたやつらは、あらかたクレアが片付けたってさ」
そして、先ほどの足取りが演技だったのだとたしかに分かる、軽い足取りでネルが駆け寄ってきた。先に教会に向かっていた、という設定のウォルターの取り巻き、風雷兵たちが、手早く倒れるものたちを縛り上げてまとめる。
「アーリグリフ王へはウォルター老が報告しにいってくれたよ。……やれやれだね」
任務遂行の達成感で、いまいち色気のない全開の笑顔を浮かべるネル。手をのばせばたやすく届くところにいる彼女を、手をのばしてたやすく彼は手を届かせた。いきなり細い腰を引き寄せた彼に対して、なんだいいきなり、ときょとんとする彼女に、何も考えていないアルベルは自分の行動に困惑する。
その後の自分の行動に、さらに仰天する。
多分驚きに一瞬見開かれた目が、すぐに細くなって。
紅を引かれたくちびるが、その両端が、そしてくっと持ち上がった。
それからあと彼らがどうしたのかは、――まあ、いわずが花。
