恐怖、恐怖。
目に見えない心を縛る、その奥に時々「真実」を隠している、
ぽん、ぽん。
あたたかい手のひらが軽くたたくように背をなでた。背に回った腕が、冷え切った身体に熱を与えてくれる。あたたかいものに包み込まれている。
あたたかいものに抱きしめられて、それにしがみついている。
……とても、とても安心する。
「……え……?」
安心して、思わず「それ」に頬まですり寄せて。
そうしてから、マリアはゆっくりと瞬いた。まぶたが腫れぼったくて瞬きにやけに違和感が、
――そうじゃじゃなくて。
背をなでてなだめる大きなてのひらを。包み込む熱いほどのぬくもりを、細いけれど力強い腕を。その主を。
普段は乱雑で乱暴で、けれどこういうときだけはずるいくらいにやさしいその人を。
マリアは確かに知っている。知っている、
けれど。
「…………っ!!」
気づいた瞬間、我に返った瞬間。
彼女は思い切り身をよじった。抱きしめてくれた、凍えた心を身体を温めてくれたモノから離れようともがく。しがみついていた腕を離して、少しでも彼との隙間を広げようと。無駄と分かっていながら、自分から突き放そうとする。
間違えようがない。何よりもいとおしくて誰よりも大切な人から。
けれど今は、離れようと、
「――暴れるな」
「や、ぁっ!」
耳元の低いささやき。
先ほどの「恐怖」とは違って、けれどざあっと肌が粟立った。寒いわけではなくてぞくりとした。いい加減涸れたと思った涙でまた視界が潤んで。けれどそれは「怖い」からではなくて、
「無駄に暴れるだけの体力なんざねえだろうが。泣きわめいた程度で体力食いつぶして、こんなとこで寝てやがって。凍死でもする気か」
「……は、はなし……っ!」
「逃げんな、暴れんな」
知っている。
冷たいけれど、熱いひと。乱暴で直情的で、でも本当はとてもやさしいひと。嘘を吐けない人、嘘を吐かせないひと。彼女自身とは似ているようでまるで正反対な、
誰よりも、
誰よりもたぶん自分よりも。
今のマリアが好意を抱いている相手。大切にしたい相手。
――アルベル。
――けど、なぜ今ここにいるの。
――いつからここにいたの!?
暴れる身体を押さえ込まれた。あきらめて力を抜いたふりをして、向こうが安心した隙をつこうとして三回失敗した。単純な体力腕力では最初から勝負になるはずがなくて、それをカバーする経験の面でもマリアが圧倒的に不利で。状況を打開するだけの作戦を練ろうにも、混乱している上疲労した脳味噌は思うように働いてくれない。
そうしてどうにもできないでいるうちに体力に限界が来て、ふうっと一瞬意識が途切れてやっと。やっとマリアは本当にあきらめる。
あきらめたけれど、せめて、
「……見ないで」
「あァ!?」
暴れたときに彼女を力いっぱい抱きしめて、そして今はそれなりにゆるんだ腕。少しの余裕に腕をねじ込ませるようにして隙間を広げて、マリアは彼から顔を背ける。
「おねがい……今は私を見ないで」
「…………」
「おねがい」
背にある彼の腕がぴくりと動いた。
動いて、そして片方が引っ込んだ。
自分から懇願しておいて、けれど半分なくなってしまったぬくもりが淋しい。ぬくもりが哀しい。
それでも、もう取繕う方法がないとしても、これ以上情けないところを見られたくなくて。これ以上涙の痕を、泣いて醜くなった顔を見られたくなくて、
誰よりもそばにいてほしいけれど、誰よりも遠く離れてほしくて。
――そして同時に、いつまた来るかもしれない「恐怖」に怯えながら。
「……ご……ごめんなさい……っ」
まるで嗚咽のようなかすれた声。ひくっと喉が鳴って、まだ残った涙が、つ、と頬を伝う。
「驚かせ、ちゃった、わね……。
大丈、夫。……今までのツケが、一気にきた、だけ……っ。す、すぐに……っ、一晩、寝れば……平気、だから」
いかにも泣いていることを証明する震えた声が、腹立たしくてとても哀しい。説得力がないことに、それに気付いてしまったことが情けない。ごちゃごちゃからまった感情が普段扱い慣れない激情が、どうすればいいのかが分からない。
分からないけれど。
彼女を訪ねてきてくれたアルベルに、説明はしなければ、と。
自分は大丈夫だから部屋に帰るように言わなければ、と。
「……ある、べる……?」
「るせ」
「っ、?」
くっ、と顎をつかまれて。せっかく稼いだ距離をゼロ近くにまで縮められて。
間近の深紅がぎらぎらと底光りしている。感情を隠すことを知らない、そういった面ではとても幼いアルベルが、
……怒って、いる……?
「あ……」
「るせえ!!」
至近距離の怒鳴り声にびくんと大きく身体が跳ねて。いつもなら、普段なら決して負けないのに負けずに睨み返すのに、今の彼女にそんな芸当はできなくて。
先ほどの「恐怖」の影響が、まだ残っているせいもあって。
マリアの心がくじかれる。その心よりも身体が先におびえてしまう。
ひとたまりもなく震えだすマリアに、けれど逃げることさえ許さないで、
「黙れ……」
「……ひ、……ぅ……っ」
アルベルの細い腕が、たかが片手が身体に回って万力のように締め上げていた。痛くてつらくて、弱りきっているマリアの脳裏に浮かぶのは。
ただ謝罪の言葉だけで許しを請う言葉だけで、
けれど怯えてしまった今、まともに声を出すことができなくて、
「黙れ……っ!」
鋭く鮮やかな深紅。マリアが世界中で一番きれいだと思う色。
彼女が一番好きな、今では一番好きな、
――深紅が、
「……てめえは、もっと強い女だと、思ってた……」
「ぅ、」
間近い深紅が、低く低くしぼり出すように。
「恐怖に負けることも、哀しみに泣くことも。絶対にないと、思っていた」
過去形で言われて、化けの皮がはがされてそれにとうとう気付かれてしまって。
こういう、気付かなければ幸せなことにいちいち気付いてしまう自分が絶望的なほど大嫌いで、
「――とんだ見込み違いってやつだな」
鼻で笑われてそれが事実だと認めてしまって、
――けれど。
けれどそれならなぜ。
なぜ今も、今もこうして抱きしめられているのか。
息もできないほどきつく抱きしめられているのか「至近距離」という単語がささやかなほど間近い距離にいるのか。
いてくれるのか。
マリアには、分からない。
