激怒、憤怒。
気持ちを心をかき立てて、時には視界をふさぐもの。心をかたく閉ざすもの。
怒りで目の前が真っ白になる、なんて。
ずっとずっと誇張だと思っていた。自分で体験したことしか信じないタチだから、今まで経験したことがないから。だからその「たとえ」を聞くたびに鼻で笑い飛ばしていた。
本当に、こんなことがあるとは。
目の前が白い。温度が高すぎて色を失った炎の白、沸騰する熔岩の中にほんの一筋、他よりも群を抜いて温度が高いことを示す白。触れたら火傷どころか、瞬時に骨まで灰に、灰さえ焼き尽くされる白。息のできない、白さ。
そこに時おりちかちかと走る、不気味な鮮やかさの赤。
――ああ、本当に「怒りで目の前が真っ白になる」なんて。
ひくっ、
彼の腕の中、小さくしゃくりあげる女。
いつもなら。たとえ何があっても何をしても勝気に強気に睨みつけてくる女。たとえば彼が悪態を吐けば、確実に三倍以上にして返してくる女。心の領域にどんなに踏み込んでも、踏み込んだつもりでも最後の一線が存在する女。それを越えることをきっと誰にも許さない女。その「一線がある」ことを余裕に変えて、強く誇らしく不敵に微笑む女。
つらければつらいほど、無理にも笑ってみせる、
誰よりも、誰よりも強い女だと思っていた。
――怒りがこみ上げる。
「……ぁ……」
たかがにらんだだけで射すくめられて、きっと彼の名前を呼ぼうとしたのが息を吐いたところで止まる。諦めたと思っていたのにまだ諦めきっていなかったのか、諦めたのに恐怖から逃げたくなったのか。
もがこうとするからそれを許さないで、さらにさらに腕に力を込める。
「い、た……っ」
眉を寄せて小さくうめいて、これはきっと純粋に痛みのために頬をこぼれ落ちる涙の粒。ここだけいつもと同じはんの、
――違う。
――「いつもと同じ反応」なんかじゃない。
――マリアは、簡単にこんな顔を見せる女じゃない。
――素直に悲鳴なんか上げない。
――涙なんかなお見せない。
――懇願するような、救いを求めるような目で誰かを見上げるなんて、
――「いつも」のマリアなら、
ぎしり、奥歯がきしむ。音を聞いたのか無意識にさらにきつく締め上げていたのか、細い身体が苦しそうに身じろぐ。
すべて見えているのに目の前が白い。
怒りのために、灼熱に白い。
アルベルは深く息を吸った。
頭を支配した怒りも、身体に入った力も。たかが呼吸ひとつでどうにかなったりはしないけれど、少し、ほんの少しだけ気持ちに余裕ができる。
その余裕を頼りに無理矢理腕を緩めて、今度は痛くないように、苦しくないように抱きしめなおす。
……畜生。
「……ムカつく……」
「っ、ぁ、……ご、」
「てめえは謝るな!!」
怒りに任せた怒鳴り声に、か細い身体が大きく跳ねた。
――この反応もまた「いつも」と違う。
そう思ってしまえば、さらにアルベルの怒りが大きくなる。
もう一度、深呼吸。
「……てめえは、謝るな……っ」
先ほどの彼の力で、砕けなかったことはきっと奇跡に違いない儚い肢体。
「てめえは、泣くな……」
おずおずと彼の背に回りかけた腕が、きっと吐き出した言葉に止まる。凍り付く。
「弱ったてめえは、てめえじゃねえ……」
「ある、」
「黙れ」
うめきの命令に素直に従うことも、怒るところで怯えることも、理不尽で身勝手な彼の言い草に報復に出ないことも。「マリア」とは違う、「ここにいるのはマリアではない」。
――そう考えれば、
――考えて、しまえば、
それは、
「……てめえは、もっと強い女だと、思ってた……」
脆い身体、儚い精神。負ったダメージにぼろぼろになって、悲痛な声を上げて泣いていた女。
「恐怖に負けることも、哀しみに泣くことも。絶対にないと、思っていた」
けれど彼女は、本当は誰よりも弱くて誰よりも脆くて。
「――とんだ見込み違いってやつだな」
いつも凛と咲き誇っていた花は、いつでも気高く強く花開いていた花は。本当はとてもとても脆かったのに、簡単に傷ついてあっという間にしおれてしまう儚いものだったのに。
「マリア」
――なのに、花自身がそれを気付かせないようにしていた。だから気付くことができなかった。
誰より近い場所にいながら、彼は彼女に気付いてやれなかった。
「……マリア」
普段名前を呼ぶことのない彼に、涙も恐怖も忘れて見開かれた翠。いつもと違う、けれど弱っているさっきとも違う。――仮面の下に「本当の彼女」垣間見た気分になる。
少し、ほんの少しだけそれを「面白い」と思う余裕がある。それに少しだけ救われる。
救われて、だから。意識して頬をゆるめて、はたから見たらかすかに頬がひくついただけだろうそれでも、彼自身は懸命に「笑み」を浮かべた気分になって。皮肉の笑みを、いつもどおりの笑みを浮かべた気分になって、
「――俺は、俺をはかり間違えていた」
「……え?」
「お前が弱っていたことも、ぼろくそに傷付いていたことも。俺は全然気付いてやれなかった」
ゆっくりと瞬く翠が、どんよりにごっていた翠が瞬きごとに少しずつ澄んでいく。
「本当のお前を知りもしないで、勝手に抱いた勝手な俺のイメージを、勝手に作り上げた「マリア」が本物だと信じ込んでいた。
……どんな時だろうがどんな場合だろうが、どんな絶望的な事態に襲われようが。強くて、絶対に傷付かない女だと、逆境すべてを平気で乗り越えるような女だと。そんなイメージを「お前」を押し付けていた」
包み込むように抱きしめる。冷え切った華奢な肢体にこの体温すべてを与えられたらと、そんな無茶なことを思う。
「強さ」を装ってその影でずたぼろに傷付いていた女を。この体温ひとつで癒せるなら安いものだと心底思う。体温全部を与えてもかまわない、貧血でふらつくこの身体の血を一滴残らずしぼり出して与えても、たとえそれで倒れてもかまわない。
癒してやりたいと思う。この弱くて儚い娘を癒す方法があるなら、何だってしてやりたいと思う。
――俺はそれだけの罪を犯した。
――俺は、気付かないうちに「マリア」を踏みにじっていた。
――誰より幸せにしてやりたいと、俺の手でそれを叶えたいと。甘いことを思いながら。
――無意識だからなおタチが悪い。
――罰を受けることで少しでも負担が軽くなればと、そんなことまで考えて。
――俺は、俺はどれだけ、
近すぎて顔がよく見えない。距離のせいだけではなくて、目の前がかすむ。
「……悪ィ……」
「そんなことっ!」
謝罪は必要ないとすぐさま上がった声が。そのもろくまろく、優しい声が。
アルベルの心に、響く。心に直接響く。
癒してやりたいのに。
逆に、癒されてしまう。
