風が強くなくて良かったと思う。

目星を付けていた岩のでっぱりを掴んで、こわごわ体重を移動させる。震える脚を岩肌に移動させて、大丈夫そうな足場を確認して。とにかく機械的に手足を動かす。考えてはいけない。恐怖で動けなくなる。
「――行けそうだわ」
「気を抜くな」
つぶやきに落ち着いた声が返ってきて、緊張感の片隅、心が安堵する。
誰かがいた方が、誰かに見られていた方が、実力を発揮できる種類の人間がいる。期待を背負うことで自分を鼓舞して、頼られることに安堵する。自分のためだと限界があるくせに、他者のためにならどこまでも強くなれる。――マリアはそういう人種だった。
アルベルの声に元気付けられて。慎重に、確実に、手足を動かす。たとえ命綱があっても、今ここで落ちれば恐怖に縛り付けられる。二度と動けなくなる。分かっていたから、なお慎重になった。岩肌にしがみついてゆっくりと移動する。
ゆるく吹き付ける風に、浮いた汗が冷えていく。指先に鋭い痛み。無視する。緊張しっぱなしの手足がやがて不平を訴えはじめた。叱り付ける。……まだだ。
「――気を抜くな」
アルベルの声に応える余裕がない。歯を食いしばって手を伸ばす。
目的の岩棚も、アルベルのいる元の岩棚も、もちろん谷底も。下手に見ると逆に怖くなるのが分かっているから、マリアは次に手を置く場所しか見ていなかった。すぐにそれに気付いたアルベルが的確な指示を飛ばし、その合間に激励や叱咤。マリアはひたすらそれに従う。
どうやらアーリグリフ重騎士隊「漆黒」団長の肩書きは、ダテではないらしい。

―― Patentrezept 2

やがて時間の感覚も、さらに距離感もなくなって。生まれてからずっと、こうして岩にはり付いてきたような錯覚すらしてきて。男の声が、どこか遠くなって。
疲労で朦朧となった頭、不意に手に伝わる感触が変わった。え、と目を見開いた瞬間バランスを崩す。絶望が心臓を締め上げる。誰に対してか、何に対してか分からない謝罪の言葉が口から漏れそうになって、しかし上がったのは悲鳴。
――落ちる!?
「マリア!!」
怒声に目を瞬く。たしかに落ちた。が、生きている。
身体中、痛くないわけではないが、それは先ほど目を覚ましたときから続いている痛みで。ゆっくりと身を起こす。きょときょとと周囲を見渡して、マリアを見て口の端を歪めているアルベルの、その深紅の瞳と目が合った。また瞬きをひとつ。
……いつの間にか目標の岩棚に、マリアはぺたりと座り込んでいた。

◇◆◇◆◇◆

最後の一歩で気を抜いてしまう人間の性を、アルベルは知っていたらしい。だからマリアの身体が岩棚までたどり着いて、たとえ手を滑らせても谷底に落ちなくなるまで、その手が穿たれた洞窟のふちにかかるまで、そうと知らせなかった。
そう理解したのは、物言いたげなアルベルがわざとらしく腕組みなどをしてマリアを見下ろしてからだった。目で促されてそこでようやく我に返ったマリアが、あわてて新たなフックを取り出し先ほどと同じように銃でそれを撃ち込んで、腰の命綱を外してそれに縛り付ける。
アルベルはというと、しばらく何やら考え込んでいたが、やがてゆっくりと顔を上げると彼のがわのロープを解きにかかった。フックから外して腰に結び付けて、狭い岩棚の許す限りぎりぎりまで後ろに下がって――
……まさか。
「退いてろ」
「な、ちょっと何考えているのよ危ない――」
細い身体が宙を跳ぶ。

「……何考えてるのよキミは!! なんでそう、面倒くさがって危険な方法ばっかり選ぶの!?」
二回ほど岩壁を足がかりに蹴って、飛び石を伝うように身軽に岩棚へ下りてきたアルベルに、マリアは全力で食ってかかった。無言でロープを外したアルベルがうるさそうに顔をしかめて、しかし何も反論しないところを見ると、どうやら自分でも無茶をした自覚はあるらしい。
「まったくもう……無事だったら良かったけど。心臓が止まるかと思ったわ」
「――だから命綱結んどいたんだろうが」
「そりゃフックは外れないだろうしロープも切れないでしょうけどね。でも、こちらがわ、私の縛り方が甘かったら全部意味ないのよ?」
分かってるの? 拗ねたように見上げると、アルベルが嫌な顔をした。その顔のままマリアから視線を外して、洞窟の中に向ける。
「――とりあえず、雨風はしのげそうね」
何を言ってももう聞かないだろうアルベルを諦めて、同じ方向を向いたマリアがつぶやいた。つぶやきながら頭の中に現在の所持品をリストアップしていく。……早いところ救助が来ないと、飢え死に確実なことだけは嫌というほど分かった。
同じことに思い当たったのだろう。不機嫌な深紅の瞳と目が合う。

◇◆◇◆◇◆

洞窟の入口付近はアルベルが少し頭をかがめなければならないほどの高さしかなかったが、しばらく行くと急に開けた。
中型のドラゴンの巣穴くらい、といえばイメージも湧くだろうか。それなりに広く高く、簡単には崩れそうにないほど頑丈で。出入口はひとつしかないので、風もそんなには入ってこない。それでも入ってきた風に運ばれた、木切れなどがばらばらと散らばっていて薪になりそうだ。入口がわ右手の壁にはどこかから沸いた水が伝ってちょっとした泉を作っていて、これで飲み水は確保できたと考えて良いだろう。
「……あとは食料さえあれば、ね……」
改めて荷物を広げてみて、マリアはため息を吐いた。ないものねだりをしてもはじまらないが、出てくるものは装備品ばかり、という現実には泣きたくなってくる。アルベルはというと、周囲を見て一応安全そうだと判断したらしく、すぐにすみの方で寝てしまった。
あるいは、彼の判断が一番正しいのかもしれない。騒いで無駄に体力を使うよりはきっと。
「敵が来ないのは、良いことなんだけど……」
ぶつぶつ言いながら荷物をまとめて、それから彼女は顔をしかめる。先ほどの無茶がたたって、爪が何枚か割れてしまっている。大怪我ではないとはいえ、痛いものは痛い。何かに集中していればともかく、不意に思い出すとずきずきする。
ため息が漏れる。痛みとは別に、いちいち脆い肉体が煩わしくて仕方がない。
「包帯……は、なかったわよね……」
せめてなにか布でもきつく巻いておけばとは思ったのだが、たった今広げたばかりの彼女の荷物には、そんなものはなかった。
「――アルベル。起きてる?」
考えているうちに指先の痛みはずっきんずっきんひどくなってきて、ひょっとしたらと期待を込めて彼に声をかけてみる。横になっていただけで別に寝入っていたわけではないらしく、アルベルはすぐに身を起こして不機嫌な目をこちらに向けてきた。
「包帯か何か、持ってない?」
「……怪我したのか?」
「ん、さっきのでちょっと。大したことはないんだけど気になるから、包帯でも巻いておけば多少はマシになるかな、って」
「――見せてみろ」
ため息交じりに言われて、彼のそばに座り込んで手を差し出す。
ちょっとした怪我でもすぐに騒いで医療班を呼ぶクリフのせいで、応急措置の知識はマリアの中で薄い。未開惑星の住民で、まがりなりにも軍人をやっているアルベルの方が、きっとこういうことには詳しいと思う。
ぞんざいな態度の割に丁寧にマリアの指先を診ていたアルベルが、ふとため息を吐いた。
「無理はするなと言っただろうが……」
「無理した覚えはないわよ。というか、半分行ったら戻るのも癪だし。……少なくとも、無理だ無茶だって、キミにだけは言われたくはないわね」
ちっ
舌打ちしたアルベルが、ためらいもせず掴んだままのマリアの指を含んだ。いきなりのことに硬直する彼女を尻目に、白い指先をじくじくと赤く染める血を舐め取っていく。優しく動く舌を必要以上に意識してしまって、瞬時に沸騰した頭の中。生々しい感触が、マリアの動悸を激しくする。
「……っ……ぁ……」
「――そういう声、出すな……阿呆」
「っ、だ……て……ある……っ」
逃げたいのに、手を掴まれていてそれができない。そもそも頭の中が真っ白で、身体がまるで動かなくて。なかばパニックに陥っているマリアとは正反対に、アルベルはあくまでマイペース。その冷静さがマリアの癪に障る。――ずるい。
彼が目を伏せていることが救いだった。これで目が合っていたら、自分が何を口走っていたか、どんな行動を起こしていたか、マリアにはまるで想像が付かない。

◇◆◇◆◇◆

激しく動揺するマリアがふと我に返ると、指に包帯を巻かれているところだった。
どこから取り出したのか全然見ていなかったが、やや巾の狭い布を意外なほど器用に丁寧に巻いていくアルベル。ずいぶん手慣れているようにも見える。
「……おら。まだ痛むか?」
「い、え、あ、あの……だ、大丈夫。あ、ありがとう」
放るようにあっさりと手を離されて、その手を胸に抱いて、マリアが赤くなってぼそぼそと礼を言う。感謝の気持ちはあるのだが、気恥ずかしくてまともに彼の顔が見られない。
そんなマリアを仏頂面で眺めていたアルベルが、ふと思い付いたように顔を上げた。彼を意識しているマリアがびくりと震えるが、それには反応しないで、
「さっき荷物広げてただろ。あん中に精神力回復するのなかったか?」
「だって、ほとんど装備品よ?」
「何でもいいんだよ。……癒しの術使うにも、今使ったらぶち倒れそうなんだ」
ちなみに。アルベルは補助呪文が使える。マリアは攻撃呪文が使える。とはいえ、マリアは呪文を使うくらいなら体力を削って必殺技を使うことを選ぶので、術自体あまり得意ではない。アルベルはしょっちゅうヒーリングを唱えるので、それだけはかなり上手だ。
――山に入ってから戦闘のたびに、戦闘が終わるたびに唱え続けて、今は精神力がゼロに近いようだが。
少し考えて、マリアがアルベルを見た。ちなみにまだ顔は赤い。
「――再生の紋章があったと思うわ。ごめんなさい。私がヒーリング使えれば良かったのに」
「ないものねだりしてもしょうがねえだろ。文句はフェイトに言やいいんだ。俺だって好き好んであんなの覚えたんじゃねえ」
吐き捨てるのに苦笑して、荷物をあさって紋章を取り出す。手を差し出されたので軽く放ると、手早く身に着けて彼はまた目を閉じた。ある程度回復するまで寝るらしい。
……さて。マリアは何をしよう。

―― Next ――
2003/09/12執筆 2004/07/14UP
アルベル×マリア
OFP
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