そして、ことさらに深く息を吸い込んだ。吸って、そしてゆっくりと吐き出す。
深呼吸をしても胸の奥にまで空気は届いた感じがしなくて、それでも別に、苦しいとは思わなかった。……もう、苦しいと思うことがなかった。
彼女の横たわる寝台にひとがたくさん集まっている。もうずいぶん意識の混濁した彼女に懸命に声をかけてくれるのは、孫たちだろう。その背後のざわめきは――あるいは押し殺した沈んだ幾重にも重なる声は息子たち娘たちだろうか。ひときわ高く大きく、まるで自己主張でもするように響いているのは――なんとか顔を見ることの叶った、先日生まれた曾孫の泣き声なのかもしれない。
声は聞こえるのに、まるで紗に隔たれているように言葉を聞き分けることは難しかった。ゆっくりと瞬いても視界は薄く明るくにごって、やはりもう、ちゃんと見ることはできない。
そして何より、ひどく眠かった。
起きていようとがんばる気力が、わきあがってこない。
――もう、眠ってもいいかしら。
――ごめんなさい、起きたらみなの話を聞かせてちょうだい?
ここで寝入ったなら、たぶんもう二度と起きることなどないと。そんな自分をどこかで知っていたけれど。
それでも哀しい約束を、やさしい約束を。愛するものたちと、愛してくれたものたちと交わす。ひょっとしたら声が出ていないのかもしれない。それでも、かさかさに渇いた自分の手を握るやわらかな感触が、泣くことをこらえながら何度も何度もうなずいてくれる。
聞こえないのに見えないのに、それが分かって彼女は笑った。
――おやすみ、おやすみね。
――そして、たくさんたくさんありがとう。
――愛してくれて、愛させてくれて。
――本当に本当に、ありがとう。
眠い、ひどくひどく眠い。
周囲に子供たちが孫たちが、いるのに。懸命に話しかけてくれるのにこんなにも眠い。
ゆっくり瞬いてもぼやけてしまって見えない周囲の景色、けれど明るいことは分かるのに、分かるけれどどうしても眠い。
夢と現の狭間を、いつか彼女の意識はぼんやりと漂っている。
一面、風に揺れる花畑の中。彼女を置いて先にいってしまった愛しい人が、ゆっくりゆっくり笑顔で手を振ってくれている。
それでも、自分は子供に孫に曾孫に取り囲まれて、小さくてあたたかな家の中、横になっていることは分かっていて。
――ありがとう、ありがとう。
――わたしは今、こんなにも満ち足りている。
――ありがとう、本当にありがとう。
――こんなにもやさしい人たちに囲まれて、わたしは今、ちっとも淋しくはない。
痛くはない、苦しくはない。ただ眠気に後押しされるように、意識がこの世界からゆっくりと遠ざかる。今まで生まれて生きてきた日にちの数だけくり返してきた眠りと、よく似ていてほんのすこし違う眠りが、彼女の元にゆっくりと訪れる。
呼吸が、ゆっくりゆっくりと。それこそ寝入るときのように深く遅いものに変わっていって、
――ありがとう。
――ありがとう、ね……?
天気のいい、明るくおだやかな春のある日。
血を分けたたくさんのものたちに見送られて。
眠るように彼女はこの世界から旅立った。
本当にただ眠っているだけのように、その口元にはやわらかな笑みが浮かんでいた。
決してまぶしくはない、けれど確かに明るくあたたかな光が彼女に降ってくる。光はやがてひとのかたちをとって、光はやがてたくさんの羽根のように散って、青い鎧をつけた金の髪の女神の姿がいつかそこにいて。
勇ましい鎧姿ながら、これ以上ないほどにやさしい笑みを浮かべた女神が舞うように優雅に白い手を彼女に差し出した。
――あなたを迎えに来たわ。
――いっしょに、いきましょう……?
