こそこそと周囲を気にしてこちらに駆けてくる青年を眺めながら、その気になれば飛ぶことも、一気に転移することだってできるのにと彼女はいかにも楽しそうに口元をほころばせた。元半妖精の現主神は、いざというときに生きていたころの癖が出るのかな、などと考えて、それは何だかとても面白い。
まあ、いざというときというか緊急事態が発生した時に、そんなんで役に立つのかなとかほんの少し思うけれど。心配するのは彼女の仕事ではないし。
「おかえり、ルーファス。……あれ、あのひとは?」
「っ、フレイアか……きみのおっかない姉さんは?」
「フレイ姉さまなら、ルーファスが玉座からいなくなった瞬間目撃して怒髪天。今から戻っても遅いと思うよ? で??」
「ああ……振られたよ」
「その割りには落ち込んでないねえ」
壮麗な宮殿――ヴァルハラ神殿のたもと、橋の桟にまるで体重を感じさせないように腰を下ろした少女の姿をした女神は、にこにこと誰もに愛される笑みを惜しげもなく主神に向ける。愛の女神の笑みにけれどつられて微笑むような余裕がなくて、主神のはずの彼はがくりとその場にしゃがみこんだ。
「くっそ……隙ついたはずだったのになあ」
「ちょーっとタイミング逃がしたね。っていうか、良かったの? 人間をまさか神に召し上げるつもりじゃあとか、姉さんぶつぶつつぶやいてたけど」
「彼女が望むなら、叶えたけどな。オレのかけたコナ、全部きれいに払いのけられたし。……つか、どうやって戻ろうか」
「――主神のお誘い断ったんだ」
目を丸くして驚く彼女に世にも情けない顔をみせて、
「分かってたけどさ、……うん、まあ分かってたんだ。そうなるだろうな、ってことくらい」
「別に選ばせることなんてないんじゃないの? 人間みたいに老いることもないし、神の命は永遠だし。不死者になるならともかく、神になるなら喜ぶんじゃないの、人間って??」
「フェアじゃないだろ」
世間話から解放する気がない女神に白旗を上げて、主神は立ち上がると彼女の腰掛ける桟にもたれかかった。――どうせ今から戻ってももう少し遅れても、すでに怒っている創造と破壊の女神の機嫌はそう大して変わらないだろう。
「あーあ、いっちゃったんだー。
おはなししてみたかったのにな。ルーファスがベタ惚れの人間」
「……悪趣味なこと言うな。まあ正直な話、あれが「アリーシャ」なら無理にも引き止めたかもしれないんだけどさ」
「アリーシャでしょ? 同じ魂の、転生した人間」
「――転生した時点で、別人だよ」
別に乱れてもいない額のバンダナを直すふりをして、その実わけが分からなくて覗き込んでくる女神の視線を避けて、彼の口元は少しばかり自虐に歪む。
「同じ小麦が原材料でも、パンとパスタは別物だろ。同じだけど、違う人間なんだ。彼女は――「アリーシャ」じゃない」
「よく分からないけど。……分かってるなら、どうしてわざわざ連れてきたのさ?」
「んー……多分、確かめたかったんだ」
「別人だってことを?」
「いや、幸せに生きられたかって」
「???」
たった今駆けて来た道を目でたどって、彼女がいってしまった先を――ここからでは見えない景色を、まるで見えているように追ってみる。同じものを見ようというのか、顔を寄せてきた女神に小さく笑った。
「――フレイアは、知らなかったっけか。まあ、大声で言うようなことでもないけど」
「え、なになに?」
「オレはさ、アリーシャが幸せに生きられる世界、ってのが目標なんだよ」
「……それってスキャンダル?」
「違うけど、似たようなもんかなあ……フレイが知ったら、今以上に激怒することうけあいだよな」
「うわあ……今度ロキに言ってみよっと」
「……頼むから、それはやめてくれ。余計な尾ひれ背びれ胸びれくっつきそうだ。ていうか、ロキそれ知ってる気がするけどな。いや、確認するなよ墓穴掘るのはイヤだし」
「え、私だけ仲間はずれ?」
「フレイは知らないと思うぞ」
ばかな内緒話を切り上げて、もう一度バンダナを直すふりをして、
「――シルメリア。いるんだろ?」
「……そろそろ戻りたいんだけど」
「確認したいんだ。……彼女は、アリーシャか?」
「知ってて私に訊ねるなんて大した皮肉ね。……大体はあの娘よ。魂は。ただし、一度私たちの魂と同化したのは事実だから、少しだけ混ざった部分も残っていたわ。……もう彼女の一部で、今さら取り出すことなんてできないけど」
角を曲がって出てきましたという感じに、実際には何もない虚空から現れた金髪の女神は、まったく好意を含まない目で現主神をにらみつけると満足かしらと鼻を鳴らす。あれ、今のヴァルキリーが長女じゃなかったかしらとフレイアが主神を横目で見て、彼女からでは口元しか見えない彼はなんだか歪んだ笑みを浮かべていた。
「それよりも、現主神がみみっちいことさせるじゃない。迎えにかこつけて私に魂調べさせようだなんて」
「……きみの姉さんたち行かせたのがあとでばれたら、そっちのが怒るだろ……どこからともなく矢が降り注ぐのはぞっとしねえよさすがにオレでも」
「当然ね」
ふん、と再び鼻を鳴らす真似をする女神は、フレイアが知っている彼女よりもよほどスレて映ったらしい。何でシルメリアお姉さまこんなんなっちゃったのとばかりに恨みがましそうに見上げてくる目線に気付いて、ごめんなさいと口の動きだけで主神が謝った。
それはそれとして、と今度は声に出して続ける。
「魂がそれで、あとは一度生きて死んだから……やっぱり同じだけど違う人間だよなあ」
「そんなに気になるなら、本当に無理にでも召し上げればよかったじゃない。私を迎えに行かせたって、そういうことだと思ってたわよ」
「実際にそれやってたならニーベルンバレスティあたり食らわせてただろ」
「アリーシャの意志を踏みにじるような真似したら私が許さないわ」
「……オレにどうしろってんだよ」
話が見えなくてそろそろ目を白黒させはじめたフレイアに気付いて、三度鼻を鳴らしてみせた金髪の戦女神は、じゃあねとフレイアに向けてつぶやくと姿を消した。あとの面倒は全部オレかよと続けてぼやきはじめる主神を、好奇心の目が凝視する。
「……で、どゆこと?」
「全部オレのわがままです。……アリーシャに幸せになってほしかったんだ」
「それってどっちの?」
「ひみつ。――まあでもさ、何を「幸せ」って言うのかオレには分かんなくなっちまっててな。彼女は幸せだって断言してたから、これでよかったのかなとも思うけど」
だからそれってどういう意味、と幼い女神が畳み掛けてきたのはきれいに無視された。空を仰ぐように遠い遠い目をした主神に言葉なんて届いていないことを知って悟って、たぶん「アリーシャ」とかいう人間の娘の声だったなら返事するんだろうな、とかそんなことを考えて、フレイアはひょいと橋の桟から飛び降りる。
――人間と神の感覚は、きっと違うことはわかるから。
――だから主神に、ただの人間の幸せが分からないのもわかるし、
――けれどそれなのにそんなただの人間に執着して幸せにしたいと思う主神の心は、分からなくて。
「……そろそろ戻った方がいいと思うなー」
――そろそろフレイ姉さまこっちに気付いたと思うよ。
ぼそっとこぼした小さな声は、どうやら聞こえたらしい。ぎくんと背筋の伸びた主神に、全然主神らしくないねと幼い女神が笑う。
高い空、創ったように整って美しい神々の国。
――そこに一片流れた、花びらのような光が。
美しすぎて哀しく映ったのは、誰の目にだっただろうか。
