瞬いたなら、気付いたなら。そこは、彼女が暮らした彼女が寝ていた小さくあたたかな家の中ではなかった。まったく違った。高い空からやわらかな光が降ることは同じかもしれないけれど、足をくすぐるのはまるで芽生えたばかりの草たち。おだやかに時おり風が吹いていて、それにさらわれてさわさわと小さな音を立てるのは光るように美しい花たち。

彼女の知るどんな景色よりも、
彼女の見たどんな景色よりも。
彼女の思い描いた、すべてよりも。

美しい世界に、彼女はいた。どこか、なぜか懐かしい気持ちがかすかにわき起こる美しい世界が、――そこにはあった。

―― 春の夢 2

「……呼んでいる、いかなくちゃ……? いえ、違うかしら。なんだか、」
女神がいたはずなのにここには姿が見えなくて、それに疑問を覚えることもなく。
小さくつぶやいて、そして苦笑するとゆっくりと足を踏み出す。なんとなく気になる方向へ、ゆっくりゆっくり歩いていく。すっかり動くことを忘れていた、関節の痛みからひどく動かしづらかった膝が、今は軽い。歩くことが、ただ歩くことがこれほどに楽しいと、今はじめて知る。
あの女神の姿は、やはり、ない。視界はずいぶん開けて、こんなにも広い花畑に、けれど今彼女のほかには誰もいない。――だからといって彼女は、ひとりで淋しいとは思わなかった。
眠りにつく前と同じ満ち足りた気持ちで、微笑さえ浮かべながら。彼女の歩みはただゆっくりと続く。

――ここはどこだろう、だとか。
――見たような気がする、あの綺麗な女神さまはどこにいったのだろう、とか。

夢と現が混在して、それでも不安は何ひとつ覚えることなくふとその歩みが止まったのは。遠いようでいて実は近いのかもしれないような場所に、壮麗な建物が見えたから。

「あそこまで、いってみましょうか」
つぶやくと、また彼女は足を踏み出した。
ゆっくりゆっくり、痛くない膝だけではなくて、思いがけず軽い身体は疲れを知らないようだった。気が付いたとき立っていたあの花畑から、もうずいぶんそれなりに歩いた気がしたけれど、元気なときには日課だったあのころの散歩のときのような、ほんの少しの充実したけだるさ以上の疲労は、まったく覚えなかった。
そうして歩きながら、見渡す。草原の緑、花のいろいろ。向こうの方には豊かな森があって、気付けばもう目の前の壮麗な建物――宮殿? 以外にも、実はちらほら建物が見えて。
すべてが、やわらかで親しみのある、けれどこれ以上ないほどに美しいものばかりで。
口元がほころんでいる。やさしい気持ちで心が満たされている。ああ、何て幸せなのだろうと、ほっとため息を吐こうとして。

◇◆◇◆◇◆

「――ヴァルハラへようこそ」
ふと聞こえてきた声は、おそらく自分に向けてだろう。
顔を上げたなら、壮麗な宮殿に続く橋のたもとに、緑の髪の美しい顔だちの青年が立っていて、彼女に手を振っている。耳にやさしい声が届けば、年甲斐もなく胸がどきどきして。髪の緑よりも深くて複雑な翠の目が笑みのかたちに細められていて、口元はふわりとやさしい笑みを浮かべていて、ひどくひどく胸が騒ぎ出す。

――知らないのに、知っているような気がした。
――知っているはずなのに、知らないような気がした。

それでも、足は止まらない。
相変わらずゆっくりゆっくり、歩きながら彼女の口元にはやはり笑みがある。にこにことほほえむ青年はそんな彼女をどこまでもあたたかく迎えるように、大きく手を広げて待っていてくれる。

美しい世界に。
決して人の世にはありえない美しすぎる世界に、それでも受け入れられているような。
安堵と、心満ちて潤う幸福感と、――なぜか切ないほどの懐古と。

ふしぎな感覚に首をかしげる間もなく、青年の立つ橋のたもとにたどり着いた。いよいよ深く笑みこぼれる青年に、彼女の嬉しさも深くなる。

―― Next ――
2007/12/10UP
ルーファス×アリーシャ
OFP
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[最終修正 - 2024/06/27-10:31]