嬉しさにこみ上げてくるような、懐かしむような。喜びと愛おしさと、……そしてどこか淋しさと。
複雑な感情が透けて見える笑みを向けられて、同じように複雑な感情を抱いている自分に気が付いて。そんな自分に、彼女は戸惑う。
「久しぶりだね」
「? ……あの、――え!?」
橋のたもとで彼女を待ちかまえていた青年は、それがまるで当然のようにいきなりその場に膝を付いた。驚きよりも、きっと確実に呆気に取られて思わず腰の引ける彼女に、あくまで笑みが向くと宙に取り残されたような左手がさらわれる。実際に膝を地につけたのはどうやら一瞬で、捧げるようにした彼女の手に、そして伸び上がるような自然な仕草で口付けられる。
「……あのっ……!!」
かわいた手に感じた、それは瞬間のやわらかな感触。
それは一瞬で、それも一瞬で。左手だけはまだつかまったまま、青年はただ何ごともなかったような涼しい顔でその場に立っていて。まるで少女のような動悸に一気にほほの熱くなった彼女に、どうかしたのかとにこにこと首をかしげている。
あまりに何ごとでもない顔が向くので。からかわれたのだろうかと、怒りではなく困惑に眉を寄せて、
「からかわないでください。……こんな、おばあちゃんに」
つぶやいたなら瞬間に上がった血の熱さは、ゆっくりと、けれど確かに引いていく。
「からかってなんていないさ。――だけど、そうだね。驚かせたか」
そっとはなされたのは、誇りを持って生きた歳月を刻む――かわいて節の目立つ老婆の手。彼女には孫ほども歳の離れているだろう青年につぶやけば、やわらかな微笑に淋しさの色が静かに混じる。
――いや、ちがう。
どこか淋しい笑みだったのは最初からで、少し、ほんの少し淋しさの割合が高くなっただけだ。なんとなくそれが分かって、落ち着いたもののざわめきの消えない彼女の心が、また静かに音を立てた。
はじめて逢うはずの、まったく知らない、美しい顔だちの青年。
はじめて逢うはずなのに、どこか懐かしい感じのする、整った顔立ちの青年。
――あなたは誰、という言葉は出てこなくて、
――わたしの名前は、という言葉も出てこなくて、
それで、それが、正しいと。なぜか、なぜだか思ってしまって。
「――仕切り直し、かな。
ようこそ、ヴァルハラへ」
今まではなかったことにしてくれと青年が笑って、どこか道化のようなキザったらしい大げさな印象で頭を下げた。けれどそれよりも言われた内容に目を見張って、彼女は改めて周囲を見渡す。
美しい、夢よりも美しい景色。
きっとそれは、そんなものをはじめて見た瞬間に、きっと気付いておかしくなかったはずの事実。一度気付いたなら速やかに彼女の心にしみわたっていく、事実。
「……そう、か。ええ、……そう、だったわね。わたしは、」
「ここでなら、きみはきみの望む姿を取れるよ。実際の過去の自分なら、なおさら。――忘れてしまったというなら、オレが手を貸してもいい」
どうしてそんなことを彼が断言できるのか、それは分からないけれど。きっと心からの親切で申し出てくれた青年に、少しだけ考えて、やがて彼女はゆるく首をふる。
「ありがとう。……けれど、いりません。
わたしは、わたしの人生に満足しています。今までの時間をなかったことには、したくありません。このままで、いたい」
「……わかった。ああ、じゃあ……楽しかった、かい?」
散歩でもしようかと身振りで示す青年が数歩先を歩き出して、壮麗な建物の中ではなく、けれど彼女の歩いてきた花畑でもなく。そのまま数歩歩きながらふと振り返る青年の後を追って、ゆっくりゆっくり歩を運びながら、言われた言葉に彼女の口元にやさしい笑みが浮かぶ。
もう過去にしか存在しない、記憶。それを思い出すことは自分だけの宝箱をそっと覗き込むような感覚にどこか似ていて、どこかくすぐったい感じと、誰かに誇りたい気持ちと自分だけで愛でたい気持ちが混在して、
「――……はい」
だから、ただうなずいた。
始終浮かんでいた青年の笑みが深くなったのが分かって、ただのたったひとつの彼女のうなずきに、彼もまた喜んでいてくれているようで、こころの奥底にあたたかな光がまるで灯ったようで、くすぐったい気持ちが大きくなる。
思い返すしかないのは残念だけれど、置いてきてしまった人たちには申し訳ないけれど。
何ひとつ後悔はない、とはとてもいえないにしても。
思い返したなら、それは彼女にとって最高の人生だった。
もう二度と望めない、かけがえのない宝石のような日々だった。
だから、笑って。
先ほど来たところとは違う、けれど同じように美しい花畑の中にいつの間にか立っていたことをそこで知る。青年は相変わらず嬉しそうに微笑んでいて、呼び覚まされた思い出の他に、つられてしまいそうなその笑みに彼女も微笑んだままぐるりと見渡す。
「……きれい……」
「ああ、オレがこの世界で一番きれいだと思う場所だよ。だから、連れてきたかった。
――そのとききみが笑ってくれていたらいいなって、思ってた」
ふしぎなことば、知らないはずなのにどこか懐かしいひと。
風が渡って青年の髪を揺らして、浮かぶのは――確かに微笑みなのに、どこか涙を誘うような、けれどやさしいやさしい、包むような憧憬の笑み。
